天野 若人 6

(あまの わかひと)


海の人編3


2)泳ぐ

 山陰の海辺で育った若人が、小さいときに自然に身につけたのは、 “我流泳ぎ”である。10歳年上の実兄・詳雄(みつお)の“水泳術”に惹かれていた?のかもしれない。速く・スマートに泳ぐのではなくて、いかにして“魚”をモリで仕留めるか? アワビやサザエをどうすれば獲れるか?・・・
 とはいっても、1949年(昭和24年)夏に家族が父のいる広島へ引っ越して以来、1950年からの夏休みは、大半を広島の近郊に住んでいる家族のもとへ行って過ごしていたため、夏の泳ぐ時期は、夏休みまでの限られた期間であった。
 泳ぐことに関して、誰かに教わった記憶もないし、教えを乞うた記録もない。すべては自己流で身につけた技としか言いようがない。

 一つには、水(海)に対する怖さを感じていなかった? あるいは“死”に対しても、日常的に遭遇していた?のかもしれない。
 当時(昭和20年代前半)には、度々“水死者”が、唐鐘港にも引き上げられる時があった。ある時は、海への“入水自殺者”。ある時は、地元漁船が漁に出て、海上で死体を発見して、連れ帰ったケースだった・・・。当時は終戦後のどさくさもあって、検視までには時間もかかり、死体は港内の砂浜に、“むしろ”がかぶさった程度で置かれていた。こうした光景に遭遇していたことで、死に対する感覚は、ごく普通の生活の一コマとして受け取っていた?のかもしれない。
 同じ小学校の下級生(接触はなかった)が、湾内の外海(地元では“築港の外”といっていた)で泳いでいて、水死したケースもあった。そんな時代感覚だった。

 
 “海の子”の遊びの必須ともいえる“泳ぐ”を、どうして身につけたか? 誰に教わったか? いつ頃(何歳?)に身につけた?・・・何も思い出せない。ただ、泳いでいる記憶は、いつも一人だけである!! 例によって、自分一人の我流で身につけたとしか思えない。

しら
しら

 唐鐘の小さな漁港は、砂浜である。漁船を丘に上げるには、“砂浜”では具合が悪い。上がらない。上図にあるような、木を“井状”に組み合わせたものを砂浜に置くことで、うまく上げることができていた。これを当地では、“しら”と呼んでいた。材料木は“椿”が良いといわれていた。
 陸揚げされた船は、この“しら”2セットの上に置かれていた。当然、陸揚げするには、何個かの“しら”を船の下に順次敷きながら引き上げるのである(当時大半が人力だった。2か所くらい手回しの陸揚げ機があったが、動力は人が手で歯車を回す程度のものである)。
 この“しら”の井形は、小さな子どもの頭が入るくらいの大きさである。木製だから、海には浮くのである!! そう、この“しら”を浮き輪代わりに使いながら覚えるのが、この地方の子ども達が水泳を習得する方法だった。
 
 150メートル程度の唐鐘漁港湾内の砂浜は、一般の砂浜とはイメージが違った。砂浜の海には、少しずつ深くなっていくという共通概念がある。唐鐘港湾内の砂浜は、急な深みになっている。考えてみると、浅い砂浜が続いていると、船は陸揚げしにくい。浚渫してそうなったのかどうかはわからない。

 その時、僕は小学校にはいっていなかった? 僕はいつものように、“しら”を浮き輪代わりにして泳いでいた(というよりか海に浮かんでいる状態だった?)。
 波打ち際(といっても湾内は波というほどの“波打ち”はない)から数メートルまで(小さかったので、まだ短かった?)・・・浮き輪(?)から離れた!
 少しもがきながら(泳ぐまではない)・・・やっぱり、まだ泳げない!!
 足を伸ばした! 手(足?)ごたえがない! パニックに・・・。もがいて、海水を飲む・・・。
 数分(?)(自分にはそう感じられた)・・・そんなに長い時間ではなかったか? もうだめか・・・諦めて静かになった??・・・あれ、まだ、生きているぞ!! 仰向けになった状態で手を動かしながら、砂浜へと向かっていた。空はすごく青いと思った。

 砂浜で青空を眺めていた・・・。
「若坊! あの“しら”、あんなところへ持ち出したの、お前だろう!!」大きな怒鳴り声である。
 顔は笑っていたな・・・僕は名前も知らない地元漁師だった。

 今の得意泳法は、“犬かき”である。この種目では、世界大会はもちろん、日本大会もない!!
 “犬かき”と犬になっているが、動物の世界では、この泳法が“世界標準”である。人間以外、陸上の全動物は本泳法で泳ぐ。不思議な光景である。
 次の夏、僕は“犬かき”主体で泳いでいる。海に浮かんでいるというのが正しいかも・・・。この泳法、意外に体力(腕力?)を使う。体力を消耗する割には推進力が少なく、前に進まない。20メートル以上泳いだ経験がない。

 唐鐘漁港の右側には、畳が浦につながる“猫島”から石積みされた防波堤があった。現在は橋がつけてあるが、当時は陸伝いにはこの場所へは行けなかった。好奇心は人一倍である。“猫島”へ、犬かきで行こう!と思いたつ。砂浜からは、100メートルちょっとか?

 中間地点までは難なくたどり着いたが、流石に犬かきは体力がいる!
 まだ、2,30メートルはある・・・あとひとがんばりだ・・・。
 まだ、10メートル以上はあるぞ!! でも、体力の限界だ!
 諦めて・・・体を起こした。足が、陸地を感じていた!! ついた!! 猫島の手前が、ちょっとした浅瀬の岩礁からできていた。

 小学校も高学年になった頃には、泳ぎを我流で身につけていた。世の中では水泳が盛んになり始め、競泳も国内大会が開催されたりして、泳法を知ることになる。当時、若人が会得していた泳法は、“背泳ぎ”(現在の背泳)と“カエル泳ぎ”(現在の平泳ぎ)が主体で、“男泳ぎ”(現在の自由形)も、少しやっていた。

 泳ぐ主目的は、魚やタコをモリで突くか、サザエやアワビを獲るかであった。海中に潜って獲物を探し、素潜りで疲れると、“背泳ぎ”(というか海に浮かんで休憩)をしていた。
 水泳目的が、もう一つあった。釣りをするための海中観察である。小さい時分から、釣りは若人の大好きな遊びだった。若人にとっての“釣り”は、“魚”との駆け引き・・・。海中の様子を想像することで、釣りへの好奇心が高まっていたと思う。
 釣りでは、季節季節で、狙う魚種が違ってくる。また、生息している場所によっても、季節と魚種とが異なる。
 若人は、“釣り”に対して、魚種と海中地形を推測して魚と駆け引きするといった感覚を持っていた。

 若人に“泳ぐ”ことの格好良さを植え付けたのは、10歳年上の長男・詳雄(みつお)である。小さい時分に母の実家に養子入りし、苗字は別だった。何故か、兄弟の中でも一番気が合っていた。
 昭和6年の生まれであるから、終戦の時は旧制の中学生だった。終戦後には普通高校になった。
 昭和24年4月に浜田水産高校という水産高校が新しく開学されると、この水産高校へ詳雄は入学し直す。当然、通常生より2歳年上である。
 元来、跳ね上がり的な性格が、水産高校という“海”を相手の高校で、最年長者である。この3年間は自由奔放な学生生活をしていたらしい?

 3年になったある日、新造された“カッター船”を十数人の生徒達に漕がせて、唐鐘漁港へ入ってきた。当時の唐鐘の漁業規模は、漁船の大半は手漕ぎの伝馬船で、エンジン付きの漁船もせいぜい2人が乗り込んで沖合に出る程度のものであった。しかも、エンジン付き漁船は10艘もないほどの、零細漁業町である。
 そろいの練習服を身につけた水産高校生が操るカッター船は、大きさに似合わず相当なスピードで走る。小学生の僕には、詳雄が何か“英雄”のように見えていた。

 詳雄が勉強なることをしていた姿を、見たことはない。
 大半は夏の思い出で、魚を“やり”(当時はこう呼んでいた)で仕留めて帰っていた詳雄の姿である。詳雄の“やり”の先には3本爪の刃がつき、後ろの端には自転車の古タイヤ(中の柔らかいゴム部分)をつけた、極シンプルな道具である。
 詳雄が狙う獲物は、魚である。例外で一度だけ“アワビ”を持ち帰った記憶がある。その貝殻が残っている。直径は20センチにもなる大物で、こんな大きなアワビの貝殻は見たこともない。
 詳雄曰く、「このアワビ2枚が重なっておったけとってきた」 貝殻は何故か1枚しか残っていない・・・。
 ある夏、2人の中学生が、大きな“赤エイ”を竹の天秤で担いできた!! 詳雄曰く、「わか、このエイ、“やり”7本をつこうてやっととったけのお」  
 水道施設が普及していない当時は、家の横隅の5メートル四方の一角には、近所の共同井戸があった。5,6メートルの深さがあり、毎年初夏には近所共同で“井戸清掃”をしていた。そこは食品の洗い場でもあり、まさに、“井戸端会議”の場所である。そこで、その“エイ”をさばいて、近所数軒へ配分する・・・。

 こうした一連の日常風景が、若人の“詳雄”に対する、何ともいえない気持ちだった。若人の水泳に対する思いは、こうして培われていた・・・のかも?? 兎に角、水泳は素潜りだ!!
 残念ながら、若人は、魚を“やり”で獲った記憶はない。若人の素潜り漁は、タコ獲か、サザエやアワビ漁までだった。アワビといっても、詳雄のアワビには到底及びもつかない、小さなものでしかなかった。

 

 若人は、昭和40年に企業に就職した。毎年、社内で健康診断がある。医療的な診察だけでなく、軽い運動の診断(テスト)?もあった。身長、体重はもちろん、“肺活量の測定”まであった時期がある。若人自身がびっくりである。“6000以上”である!!! お前、途中で息をついだのと違うか!!

 以降、この水泳がもたらしてくれた“肺活力”が、若人の活力(時々、“マグロ人間”を自称する)、エンジンの基礎になっているのかも・・・これも、“詳雄効果”として意識する昨今である。

 喜寿(2017年)を前にして、通っているスイミングで潜ってみた。25メートルを折り返し・・・推定、35メートルは潜れたか???な。



参考 <天然記念物:畳が浦とは?>

<石見畳ヶ浦>
石見畳ヶ浦(いわみたたみがうら)は、島根県浜田市にある海岸景勝地。単純に畳ヶ浦ともいう。名の由来は千畳敷が畳を敷き詰めたように見えることに因む。
広義では、一帯は唐鐘海岸と呼ばれており、その中にある景勝地として扱われる。浜田海岸県立自然公園に指定されている。
一帯は古くから「床浦」と呼ばれた景勝地だが、1872年に発生した浜田地震によって海底が約30cm隆起、今にみられるような千畳敷と断崖が融合した景観となった。地質学的に大変貴重であり、1932年に国の天然記念物に指定されている。

引用:「石見畳ヶ浦」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org 更新日時:2020年1月15日 (水) 13:10

<浜田地震>
浜田地震(はまだじしん)は、1872年3月14日(明治5年2月6日)に2011年現在の島根県浜田市(当時は浜田県浜田町)沖で発生した地震である。マグニチュードは7.1。気象庁は最大震度は不明としているが、宇佐美(2003)は被害状況から浜田、邑智および大田で震度7と推定している。
家屋全壊は4506棟で起こり、230棟の家屋が焼失した。死者は浜田県内で536人、出雲県内では15人。山崩れは6567か所で起き、邇摩郡では33戸が埋没した。地震発生の1週間前から鳴り動き、当日も大小の前震があった。発震時は16時40分頃とされ、当日の11時頃から微震があり、本震の約1時間前にはかなり大きな前震があった。
この地震によって国分海岸一帯が隆起し、石見畳ヶ浦ができた。浜田浦では本震の数十分前から潮が引き、沖合い140mのところにある鶴島まで海底が露出し、徒歩で渡ってアワビを取って帰って来たところに地震が起こったという。

引用:「浜田地震」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org 更新日時:2021年7月8日 (木) 19:38



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山の人編1
山の人編2
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