天野 若人 8

(あまの わかひと)


海の人編5


釣りを考える

 釣りを始めて、もう3年目になっていたが、釣り方に色々な方法があるということには、気付いていなかった。今振り返ると、それに気付いたのは、泳ぎを覚えてからのような気がする。泳ぎを覚えて、海中の状況や、魚の居場所等を、夏の水泳時期に観察している自分に気が付いた。
 わずかな期間で、時期により狙う魚や釣りのスタイルを変えていた。泳ぎながら、子ども心に考えながら、海中観察をすることで、魚の種類を見て無意識のうちに身につけたらしい。
 人間が持っている、成長過程の本能的部分ではないかと、納得するしかない(動物本来の本能か? この成長時期に培われる人間本来の成長過程か?)。

 春になり、ワカメ狩りも始まると、僕の釣りも開始である。
 5月の連休前後までは、“ボッコ”狙いである。この魚は、海中を泳ぎ回ることはない。海中の岩の割れ目等に“潜んで”、獲物を獲る。海中の岩礁のような保護色で、獲物を待つのだ。この魚は、こうした習性を、いつ、どのようにして得たのだろうか。この魚を釣る場合には、浮きは使わない。口が大きくて、“がっぶ”と餌に食いつく。とは言っても、僕はその瞬間を見たことはない。

 砂浜から直接行くことができた防波堤(築港とも呼んでいた)が、“ボッコ”の絶好の釣り場である。
 石積みされた場所には、至る所に隙間ができている。この隙間が 、“ボッコ”の絶好の住処である。僕は、どうしてこれを知り得たのか、今は思い出せない。
 石積みの隙間を探りながら、獲物を狙う。浮きのような細工はいらない。うまく隙間に餌を落とし込み、潜んでいる“ボッコ”を狙うのである。
 重りは、かなり重いものを使う。隙間を効果的に手探り(といっても、“重り”を上下させながら探る)で狙っていく。見えない隙間の深さを推測して、まさに、“探り釣り”である。

 勝負は早い! “ボッコ”が隙間にいれば、すぐに食いつく。
 当たりが無ければ、この隙間には“ボッコ”はいない。次の隙間へ移動する。
 “ボッコ”は大きな口をしている。一発で餌に食いつき(見たことはないが)、仕留めることができる。

 “ボッコ”釣りを始めた時は、釣り針も小さめで、餌も少なく柔らかなものを使っていた。“ボッコ穴”を探っているうちに、餌が外れたりして、今までの釣りとは違うなと感じて、試行錯誤をしながら、針も大きめ、餌も外れにくい硬めのもの(魚の切り身、フナ虫等)に変えていった。
 この釣りの弱点は、たまに岩礁に釣り針がかかることである。釣り針が岩礁にかかった場合には、まず外すことは諦めて、どこで回収できるかを考えた。最悪はテグス(釣り糸)を失う場合だったが、大半は竿も使いながら、“重りから釣り針”までの被害を、最小限にする術を身につけていた。

 連休が終わると、山陰に夏を呼ぶ太陽が、日に日に輝きを増してくる。若人の“釣り”は、場所と、狙う魚とが変わってくる。釣りの場所は、天然記念物にも指定されている、畳が浦に移る。

 畳が浦は、1872年3月14日(明治5年2月6日)に現在の島根県浜田市(当時は浜田県浜田町)沖で発生した“浜田地震”(マグニチュード7.1)で、隆起してできたとされている。別名を“千畳敷”ともいわれる通り、その広さは想像できる。
 この地帯では、至るところで“断層”を見ることができる。もちろん、この千畳敷の一角にも、その痕跡がある。川のような情景になったり、岸から急な落ち込みになっていたりする。

 
 若人がこの時期に狙うポイントは4,5か所あり、そこは、岸から急な落ち込みになっている場所であった。狙う魚は、“ムギヤキ”(キュウセン。この時期=麦の穫り入れ時期に釣れるので、この名?)である。
 釣具は“ボッコ”から変化させている。岸から可能な限り沖に仕掛けたいので、一番長い竿を使う。真竹で作っていて、獲物が小さく弱い当たりしかない場合でもわかるように、細くて長く、軽いものを使っている。
 浮きは使わない。海中に“餌”を浮かして釣るだけの、ごく単純な方法である。
 “ムギヤキ”の口は、それほど大きくはないので、針は小さめにし、餌は海辺にいる“ガニゴズ”(ヤドカリの地元名)の頭部分を除去したものを使っていた。
 小さな獲物なので、竿を経由して伝わる当たりを、直接手で感じて釣り上げる。重りも、ボッコ釣りの半分から3分の1程度の軽さにした。

 “ツッ、ツッ”・・・小さな当たりが来る。すぐには反応しない!  
 次の当たり! 素早く、竿を手首だけで操作する!
 意外に強い引きが・・・この感触・・・。
 釣り上げた“ムギヤキ”は、近くの水たまりへ。
 今日の釣果は? 何故か、釣果の数は、しっかりと数える。
 2,30分トライした。当たりはない。次のポイントへと移動する。

 当時は、土曜日も学校だった。もちろん午前中だけ。この体験をどれくらいしたのか、はっきりとは覚えていないが、意外に少なかったのかも知れない。

 6月になると、山陰の海は、夏の様相を帯び始める。海水はまだ冷たいが、入れないほどではない。
 若人のこの時期の釣りは、築港の外でする “キスゴ”釣りである。初めてこの魚を釣ったのは、築港から“チンチンフグ”を狙っていた時に、偶然かかったように記憶している。釣り上げて、その姿のきれいさに感動した。同時に、泳ぎも覚えて外海(築港外)で泳ぐことで、海のきれいさにも感心した。

 キスゴ釣り描写の前に、当時の海岸の原風景を見ておこう。
 当時の風景写真の手持ちがないので、現在の風景から振り返ることにしよう。
 その頃のこの海岸は、殊の外美しかった。3キロ弱の白い砂浜と、それを取り囲む松林だけが続いていた。そして、現在の“国府小学校”の少し“下府”寄りに、小屋掛けの粗末な建物(?)があった。唐鐘集落の“火葬場”である。小さいときに、親戚の火葬と翌朝の“骨上げ”で、初めて人の死に直面したことの記憶がある。
 当時の小学生は、集落(僕は唐鐘)で縄張り的な意識が強く、他集落とは交流しにくい部分があった。むしろ、張り合っていたように思う。丁度砂浜の中央あたりが、唐鐘と下府との村境だった。
 唐鐘漁港も、現在の半分程度の小さなものだった。湾の突端には船のもやい場はなく、そのあたりから直線で砂浜に石積みがされていた。その分、築港と唐鐘川との砂浜は、現在の3倍近くはあった。

 
 当時、小学生の僕にとって、“外海”(築港の外側)で遊ぶには、何かと勇気がいった。しかし、その地域には、恐怖以上に子どもの好奇心を引き付ける、魔力(大げさ?)のようなものがあった。しかも、友達と連れだってではなくて、単独行である。
 波打ち際には、“ナミノコガイ”がいくらでもいた。砂浜には、カニ(スナガニというらしい)もいた。これを獲るのも遊び(冒険?)の一つになっていた。 
 こうした環境から、“外海”での“キスゴ釣り”が始まった。
 唐鐘川は本当に小さな小川である。
 この地方特有の砂地を流れるからか、河口の前あたりの海中には、“砂州”と思われる、ちょっとした浅い砂状の海水域があることが、前年の水泳でわかっていた。
 規模は、海岸から4,5メートル沖に、深さ4,50センチ、幅2,3メートル、長さ10メートル以上の広さだった。
 波打ち際では、“ナミノコガイ”が、いくらでも獲れる。これはキスゴ釣りの餌に、もってこいである。
 釣り竿は“女竹”のものに変えている。2メートル前後で、仕掛けに浮きは必須である。もちろんこれに合わせて、針も糸も、小さくて細めにしてある。そうしないと、小さな反応に素早く対応して釣り上げることが難しい。

 さあ、釣りに行くぞ! 水着姿である。もちろん、この時期は水泳には向いていないが、胸くらいの海を4,5メートル沖に出ると、“砂州”の浅瀬にたどり着く。
 “キスゴ”が、餌を求めて回遊しているかも。
 同じ場所で釣ってもいいのだが、若人は“いらち”である。砂州を歩き回りながら、獲物を狙う。
 浅瀬の砂州は、白波が立つほどではない。ちょっとしたうねりになる程度である。ちょうど、仕掛けをうまく上下させてくれる。
 キスゴ釣りも、1時間もすると飽きてきて、何か変化を求める若人がいる。しかし、できることといえば、せいぜい、足探りで行うハマグリ探しくらいである。しかし、滅多に見つかることはない。

 釣りはやめて帰ろう! 数匹のキスゴは釣れたし!

 その夜、伯母さんが、キスゴの澄まし汁を作ってくれた。薄い塩だけの味付けで、中身はキスゴだけである。

 大阪に出て来て、“キス”の塩焼きや刺身は、何度か食する機会があった。しかし、伯母さんが作ってくれた“キスゴの澄まし汁”に勝る“キス料理”には、まだ出会っていない。
 若人の釣り人生で、キスゴの澄まし汁以外には、釣り上げた魚を料理して食べたことが思い出せない。

 
 釣りを通して、考えることの楽しさを、色々な魚たちが若人に教えてくれた。
 手招きされるがまま、引き寄せられ、考えさせられ、行動させられていたのだろう。


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