天野 若人 1
(あまの わかひと)
はじめに
・はじめに
・山の人編1
・山の人編2
・海の人編1
・海の人編2
・海の人編3
・海の人編4
・海の人編5
・海の人編6
・番外編1
・番外編2
・番外編3
・番外編4
はじめに
概略
1941年5月20日、島根県那賀郡国府町唐鐘(とうがね)生まれ。
高校までを島根県で過ごし、広島大学理学部数学科に入学、1965年4月にM産業株式会社に入社。本社計算センター~電子部品営業所~電子部品製造本社~生産技術本部で、一貫して情報システムを担当。56歳で日本規格協会へ出向し、東京での2年間の単身赴任生活を送ったあと、2000年3月にM社を58歳で早期退職。
退職後は、M経営総合研究所、P社系列のコンサルタント会社などで、地域製造業の業務改善、情報システム構築のコンサルティングを行い、2003年には企業OBによる特定非営利活動(NPO)法人を設立。
プロローグ
生まれは1941年5月であるから、一応“戦前生まれ”ということになる。浜田港近くの “米屋”の2階に住んでいたと聞いたが、全然記憶にない。子どものときの記憶は、母の実家(唐鐘)の小さな離れでの生活からである。子ども4人(姉、兄、弟と自分)に母との5人が雑魚寝状態だった。一番上の姉は1935年生まれ、弟は1944年(終戦の前年)3月生まれである。
父は郵便局に勤めていた。弟が生まれたときは、広島の郵政局へ転勤していたと思われる。太平洋上の“トラック島”で従軍していて、戦火が激しくなる前の最後の飛行機で帰国したと聞いたことがある。そのときに撮ったと思われる、日本刀を持った不似合いな写真も見たことがある。帰国して広島市内のど真ん中で、今でいう“単身赴任”であった。
トラック島からぎりぎりで帰国し、担当は貯金で、時々地域の局へ監査のために出張することがあった。8月5日は、山口県・大島で会計監査出張、翌日は岡山県での監査予定。単身赴任で、大島で宿泊して、直行することにしたようだ。翌日(7日)、徒歩で広島へ帰り、唖然とした。負傷者の介護や炊き出し等が主体の仕事になっていたようだが、詳しい話はしたがらなかった。
父は90歳を超えるまで生きた。
“人は病気では死ねない。寿命で死ぬ”が、自分の信念になった。
こうした状況から、母の実家での母子生活が続いていたと思われる。
山陰の海岸線伝いには平野は少なく、わずかな平地は“砂地”で、水田は、海岸から少し入った中国山地の端か山間の盆地という、限られた地域しかなかった。戦争中期以降になると、食糧事情も逼迫していたと想像できる。
母の実家は、屋号を“松江屋”といった。親戚には“松”の名の付く屋号を持つ家ばかりだった。先祖は松江から来た家であるから“松江屋”と呼んだと聞いたことがある。
実家の家長(私には伯父になる)は、幼少名を“まさゆき”といい、当時は“三郎左衛門”と言っていた。穏やかで、何事にも寛容、知識も豊富であった。
地域の農業指導員をしながら、農作物が限られたこの地に適したサツマイモの作付けや、ブドウ栽培の普及に努めていた。私が10歳の頃には、島根県の農業普及員として、松江で県農業連盟へ単身赴任をしていた。そこで出会った“桜井三郎右衛門”とは、「右と左の違いだなぁ」と言って、懇意にできたとうれしそうに話していたことを思い出す。
200戸程度の唐鐘集落は、田んぼを有する家は2軒だけだった。畑を有する家も俗に言う“猫の額”程度で、自家で消費する野菜を作る程度の、典型的な小漁村であった。
実家は、2反(20枚近い小さな田んぼ)の山田、3~4畝の砂地主体の畑、竹藪を含む山林がある小さな“農家”で、離れに続く“駄屋”と呼ばれていた場所には、農業関係の雑器が、無造作にあった。
弟が生まれた時期には、戦争も劣勢で、戦地から離れたこの田舎町にも影響は大きかったと思われる。特に、子どもを4人も抱えた生活への影響は、想像に難くない。
私は、血流はあまりよくないらしい。何かと血流に関係すると思われる病気をする。小さいときは、毎年ひどい“しもやけ”を作っていた。大人になっても、右手の親指と人差し指の間に、当時の“しもやけ”跡が残っていた。この文章を起草しながら見たらびっくり。「見えなくなっている!」
伯母(母は3人兄姉の一番下)が、有福温泉にある「福泉寺」という禅寺に嫁いでいた。ここはよい温泉で、広島から湯治客が来る。放射能にも効くということで、被爆者が治療目的で来た時期もあった。
母は時々、10数キロの道を歩いて、私を連れて来ていた。食糧事情もあったのではないだろうか。
ここでの“事件”を思い出す。公衆温泉で、人違いをした。当然、母と一緒で、女湯である。その人は、地元ではちょっとした有名人で、私はすごく怒られた。母親だと思って、背中あたりをつねってしまったらしい。記憶にあるような気もするが、周りの人が話のタネにするので、「覚えている」と勘違いしているのかもしれない。
自分って何だ!?
“自分”って何だ!?
わかっているようで、一番わかっていない?のでは。
飾っている自分がいる!
思いもよらないようなことを発想するときは、“本当に考えついた!”と驚きもする。どうもこれらは、幼少時分の遊びや生活の小さな出来事(申しつけられた“仕事”というほどでもない些細な事)に起因しているように思えてくるのである。
生まれてきて人 (ある面、動物)として、今後に生きていく術を、まさに動物的な感覚で身につけているのではないか?
長じて、会社に入り家庭を持った一人の人としての言動の源泉には、こうした幼少時に自然(自分で意識してついたものではない)と身につけた考え方や行動があるのではないかと思えるのである。
真っ白なキャンバスには、どんな色でも美しく会える。以降いろんな色が描かれていっても、当初の色は何かしら、顔をのぞかせてくる。決してそれを否定しない自分がいる。悪くもない! 良くもない! 己の本性というか、“自分自身”が見え隠れする。そんな思いをすることが多くなった。
年をとると、幼少に“原始返り”するといわれる。それを感じるこの頃である。
次の4つの面から、“自分を解剖”できれば本望である。
- 商売の基本との出会い
商売で一番難しいのは“お金”をもらうこと(回収である)
商品作りのコツ - 技術~技能を知る
“技術”と“技能”・・・同じようで、同じでない
子どもの頃の“マキ割”で体得できたように感じること - 自分流で取り組むということ
- 抽象化する
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