天野 若人 2

(あまの わかひと)


山の人編1

本編


1.商売の基本との出会い

 島根県の小さな漁村で、3男1女の次男(実の長男は母の実家=以下“実家”に生まれてすぐ入ったので、実際は3男になる)として、1941年5月に生まれた。一応、戦前生まれになる。6つ上の長女は、旧浜田市内の港に近い「米屋の2階に住んで、“松原小学校”に通っていた」というから、生まれはそこかもしれない。記憶は、母の実家の離れでの生活記憶しかない。

 母の実家には、10歳上の実長男(みつお)がいたが、小さいとき (小学校低学年まで)の記録はない。記録が残っているのは、実家の離れで、母と子ども4人で生活をしていた頃からである。
 実家は典型的な“零細農家”(2反程度の山田と3,4畝の砂地の畑、急斜面の竹や雑木林)である。
 伯父は地域の農業指導員という公務員的(?)なサラリーマンだった。
 小さな田畑は伯母一人で作業していた記録しかない。また、当時は煮炊きはマキである。雑木から薪にするのは当の自分の仕事になっていた。何故か?こうした作業で、みつお、兄や弟と一緒という記憶はなく、伯母との作業であった。

 僕の行動規範や思考過程は、こうした零細農家の多種多様な日常作業から身についたとしか思えない。誰も教えてくれない。伯母は、作業を頼んで終わりである。できていなかったからといっても、文句も言わない。怒りもしない。
「明日にはやっといとくれ」
 できていなければ、何日か続く。自分でやるしかない。真実をもう少し把握しておけばよかった? 今は両親、兄弟姉、伯父・伯母も他界していない。

 僕が小学校2年(昭和24年)の夏休みには、広島で単身赴任していた父のもとへ、一家で移住することになった。何故か、僕一人は、伯父宅に残ることになった。伯父の家には、10歳上のみつお(18歳)がいたし、居残った理由を確かめたこともない。
 みつおは、終戦の時は当時の浜田中学生だった。23年に新たにできた浜田水産高校へ再入学している。この時(昭和24年)は2年生で学生だった。みつおが田畑の仕事をしていたことは、一度もなかった。海に出かけては、サザエやアワビ、モリで大きな魚を獲っていた。

 ある夏、大きな“エイ”を中学生二人、さおで担いで帰ってきて、さばいたエイを近所へ配ったことを覚えている。この時は何となく、誇らしい気分になった。さらに、みつお曰く、「モリを7,8本使って仕留めた」と得意げに説明していた。農作業を手伝っている姿は、一度も見たことがなかった。

 以上のような子ども時分の記憶の中で、何故か自分は物を創る(“農作業”とまでは言えないような)ことをしていた記録は多い。それも兄弟と一緒の記憶はない。多分、他の兄弟はしていなかったと思われる。
 こうした行動が、伯父の家に居残ることになった大きな原因かもしれない。伯母も使いやすかった? 育成の責任の負担にならない? 預かりやすかった? というか、気にする必要がなかった。そう思えば、中学校卒業まで、授業や学校行事への参加は一度もなかったし、成績に対する関心も何もなかった。自由気ままな学校生活だった。
 季節季節で仕事の役割だけは言われていた。担当の仕事ができていなくても、いつまでも担当になっていた。手伝いもなかった。

 以上の生活状況が、以降に体験する体験談から思考過程を形成する重要な要素になっているのかもしれない。こうしたことは実験できないし、振り返って再現できないので、後から想像するだけである。

 以下、具体的に自分を振り返ってみることにした。

わけぎの話

 住んでいる唐鐘は、山陰の小さな数100戸にも満たない漁村である。
 これといった産業がある訳でもなく、典型的な寒村である。主体は漁業であるが、手漕ぎの伝馬船も多く、エンジン付きの船持ちは30家(個人漁業者)程度だった。まさに零細漁業者である。
 当然、ほとんどの家には畑も田んぼもなくて、せいぜい、庭で野菜を作る程度しか、農業というものはなかった。しかも、限られた農地も、日本海からの潮風に吹き上げられた砂でできた、わずかなやせた畑が主体で、田んぼは、山間にわずかな山田がある程度の土地柄である。

 以下で紹介できる体験は、「商売の本質」的な一面を体得させてくれた貴重な体験である。今から思えばだが・・・。


 小学校へ行く前だったと思うのだが、そのときは伯母しか思い出せないので、一家がすでに広島へ行った後の出来事だと思われる。小学校の低学年である。
 伯母の家には、小さいが何枚か“砂畑”があった。農家出身の伯母は、このやせた土地でもいろいろな農作物をうまく作っていた。作付けを手伝わされた記憶はないので、作付けは伯母の知恵とノウハウでされていたと推測できる。

 春先に、春の野菜“分葱”を収穫して、帰宅していた。道路を挟んだ上に、Sさん(漁師さん?)が住んでいた。Sおばさんが、
「かんしんだのお、畑仕事か? 何をとってきた?」と声をかけてきた。
「わけぎ」と答える。
 収穫を覗き込んで、「お母さんとふたりで食べるかのお?」と尋ねて、
「ふたりでは食べきれんじゃろうお。こう(買う)たろうか?・・・」申し出・・・うれしい。
「今、金はないから、あとではろうたろお」
 ルンルン気分である。伯母には報告したが、何も反応はなかった。ダメなことだけは、理由もなくダメと言うが(めったにない)、この時も“無言”の了解である。

 午後、おばちゃんを見た。
「金はろうて・・・」
「今、持ってない」
 夕暮れ時、おばちゃんを待ち構える。また叫ぶ!
「うるさいのお。はろうたるわ!」
 家にとって帰って、投げつけられるように、わずかなお金を渡された。
 “こうたるゆうたのに、なんで怒られる? でも、お金もろうたからよかった”
 この時買って食べた飴玉は、殊の外うまかった気がした。

 2,3日して、伯母が夕飯を食べながら、
「Sおばちゃんがいいんさっとで。“お宅のわかちゃんはしつこいのお。分葱を買ったお金を、まあしつこく、はろおてえとさがまれた” いうて」
 それ以上は何も会話はなく、何事もなかったかのような夕飯だった。

 自問自答している自分がいた。
 “何か悪いことをしたのかな?”
 “商売って、意外にむつかしい? 特にお金をもらうって・・・”
 “でも、お金をもらうってすごく楽しいぞ! 面白いぞ!”

 奇妙な達成感と面白さが湧き出るような、何とも言えない爽快さを持てたこと・・・。

タケノコの話

 伯母の家には、南北に連なる小さな山田を挟むように、2か所に雑木林があった。一部には杉や松もあったが、大部分は、俗にいう落葉樹主体の雑木林だった。北斜面の雑木林の北の端に、少しばかりの杉林がある。雑木林との境目あたり、水がしみ出る程度の“湧き水”が出ている200坪に満たない一角に、孟宗竹が生えている場所がある。

 この竹林のタケノコを一人で掘り出したのは、すでに家族はいなかったので、小学3年生だったと思われる。この場所にタケノコが生えていることを、自分一人で知るわけはない。何度か伯母に連れられて、タケノコ堀を教わっていたに違いない。“教わった?”といったが、伯母の性格から、何度か連れて来るうちに、自分で掘るように仕向けただけであると思われる。

 タケノコ堀には、かなりの“コツ”が必要である。生えてきている方向と深さを勘案し、掘る場所と深さを見極め、雑草や雑木の根等の障害物も推定しながら、竹本体の地下茎から生えて出ている個所に近いところから掘り出すのがベターである。
 一人でタケノコ堀を任されていたということは・・・伯母が、僕がこのコツを習得していると判断し、送り出したのだと思われる。

 この頃には、伯父は松江の島根県の農業普及員として単身赴任し、伯母との二人生活だった。小さな竹藪だが、二人で食べきれない収穫はあった。任されて2年目になると欲も出てきて、早い時期から遅くまで、収穫時期も長くなってきていた。

 村には、一軒の“よろず屋”があった。屋号を“神戸屋”といった。日用雑貨はもちろん、魚や野菜等も取扱っていた。
 魚や野菜の仕入れをする卸市場は、村にはなかった。10キロほど離れた浜田市内では卸市場もあったかもしれない。自動車も持たない個人商店では、毎日の仕入れに行ける余裕はない。魚は村の漁業市場の朝セリで必要な魚を仕入れて、店に並べていたと思われる。野菜の仕入れにはこうした場所はない。学用品も日頃の駄菓子も、この“神戸屋”で買っていた。

 タケノコを売ってくれという話のきっかけは思い出せない。「タケノコを掘っている」話、「伯母と二人でとってきたタケノコは食べきれない」話をしたと思う。
 神戸屋のおばさんが、「余った“タケノコ”うちでうっちゃろうか?」と言ってきた。もちろん、イエスである。季節は最盛期を過ぎつつあったが、まだ少しとれていた。

 早速、辻のタケノコ堀をして、食べた残りを神戸屋に持ち込んだ。もちろん、例によって伯母さんは無頓着である。自宅では、伯母さんは「おいしそうなタケノコ」から食べる。残ったタケノコを、“神戸屋”へ持ち込んだ。

 次の日、学校帰り、神戸屋を覗く! 残っている。売れていない! 2,3日続く。流石に、タケノコも疲れてきている・・・。
 4日目、タケノコ! やっとなくなっている・・・! 恐ろしくて、結果は聞かない!!

 翌年の春、何度か、タケノコが出ていないか?確かめるために、特に雨の後は学校から下校すると、その足で、竹藪まで2キロ強の山道を行く。
 3,4度目かに、やっと出てきた。しかも、3本出ている。今まで以上に慎重に、タケノコ堀をする。
 3つの中で、一番外見が悪い、おいしそうに見えない1本を残して、神戸屋に急ぐ。
 伯母さんは帰宅していなかった。その日の晩御飯は・・・。
「今年の初物だよ」と、伯母さんは、湯がいたタケノコを酢味噌で出してくれた。

 もちろん、次の学校帰り、“神戸屋”へ直行。
 “2本のタケノコはなかった!!”
 夕べのタケノコの味が思い出された。自然と、鼻歌交じりに帰宅していた。

2.技術~技能を知る

マキ割りの話

 当時、家庭内の火力は、まさに“火”。原料は“マキ”といわれる木材だった。電気なんて貴重品! ガスなんて、言葉すらなかった。火力の主体は、炊事用と風呂(五右衛門風呂といわれて、鉄製で、底に板を敷いて入浴した)とであった。各家ではこの“マキ”は、自家調達が一般的だった。

 住んでいた伯父の家も当然、自家調達である。何故か、小学校の思い出がある頃から、この役割が自分であることしか思い出せない!

 伯父の家では、炊事用のマキは、山から切り出した木(主体はクヌギ)から作ったものだった。風呂を沸かす燃料には、この“マキ”を使うことはなかった。風呂は毎日ある訳でもなかった。特に、夏場は“行水”といって、単に水をかぶるだけのこともあった。それだけに、夏場の風呂の燃料は、あまり必要がなかった。秋からは、風呂用の燃料づくりは、自分の役割であった。

 竹藪に行き、枯れた竹を適当な長さにそろえて(持ち帰りやすい長さ)、背負って持ち帰っていた。竹は空洞で軽いので、見た目にはびっくりするくらいの嵩になる。近所の人から、「そがーに、よけいせおうて、えらいのお」と褒められる?のはうれしかった(意外に、“見てくれ” 外見を気にしていたのかもしれない)。

 この竹を、実際に風呂焚きに使う前には、竹を割らないと、まさに“爆竹”する。竹を割るのは僕の役目である。これには、マキ割用の“斧”が最適である。斧の先は重い鉄でできており、重量がある。上げて下すだけで、枯れた竹は簡単に割れる。
 風呂焚きも僕の役割であり、最初の入浴時間(大体、僕)を見計らって、効果的に自分ペースで進めていたので、何も負担を感じていなかった。

 山林が少ない山陰の港町では、炊事用の“マキ”は貴重品であった。山田に迫る雑木林は、田んぼの日当たりをよくするために、田んぼから10メートル前後は、草地になっていた。ところどころに、ぽつんと木が残っていた。この木は、ほとんどが“クヌギ”(どんぐりが成る雑木)だった。クヌギで焼いた炭は火力も強く、長持ちするほどの硬さがあり、炊事用には最適な木材だった。木の内部は筋目が通り、マキ割には向いていた。

 稲刈りも終わり、10月中旬になると、伯母は、マキ用の“クヌギ”の伐採を、“専門家”(というほどでもない? 考えたら、誰でもできる?)に依頼していた。“クヌギ”の葉っぱも落ちた後だと記憶しているので、もう少し遅い時期だったかもしれない。
 伐採後のクヌギは、乾燥してくると、だんだんと固くなり、切ったり割ったりは伐採時よりも難しくなってくる。教わったわけでもないし、聞いた覚えもないが、何故かこのことを知っていたと思われる。伯母さんからは、「今日、〇×さんに、木を切ってもらいとから」とだけ告げられるのである。
 それからの1週間くらい、僕は学校から帰ると、山田に迫る草地で、マキ向けの長さに切りそろえる作業をするのが、暗黙の約束事である。切りそろえた後の1か月近くは、僕の自由時間である。

 短く切りそろえると早く乾燥する。乾燥しすぎるとクヌギは固くなり、マキ割はやりにくくなる。自分でも説明できないような行動をとっている。背負って帰れる程度にクヌギが切れていれば、伯母さんも稲刈り後の田んぼの整理で田んぼへ行った帰りには、マキ用の長さに切りそろえられたクヌギを背負って帰ってくる。僕はクヌギを取りに田んぼのそばの草地まで行かなくても済む。

 いよいよマキ割である。初めてマキ割をしたのは、家族が広島へ引っ越した次の年の冬からだったと記憶している。子どもの僕には、マキ割斧はひどく重いと感じられた。力いっぱいに振らなければ割れないと思って背中の後ろまで振り上げた斧を、クヌギの真ん中に打ち下ろすことは、至難の業であった。

 うまくいかない!! 体は疲れてくる!! チカラも入らなくなってくる。
 特に、背中まで振り上げると、重い斧の刃(というか鉄の塊)は、振り戻すのも難しいほどの重さである。

 疲れてきた結果、斧の刃を頭上までで止めて下ろしてみた!!!
 斧は、自重で難なくマキをめがけて落ちてくるではないか!!!

 自分の力は、斧の刃を頭上まで持ち上げるだけである!!!
 斧の刃が、クヌギの真ん中に落ちるよう、ちょっとした力を入れるだけだ。2,3度失敗するも、すぐにこの要領は身についた。疲れもしない。クヌギが真っ二つに割れる時の、この快感。自分の気持ちを表すかのように、真っ二つに割れたときの音と、跳ね飛んでマキになるクヌギ。

 中学生になって、マキ割役は何故か無くなっていた。燃料状況が変化し、マキの利用が少なくなった。中学生になり、冬休みも広島の両親のもとへ行く機会が増えたのか? 理由はわからない。1950年頃、10歳前後の、2,3度の冬の記憶である。

 
 時は半世紀を過ぎて、58歳で早期定年退職をした次の春、住んでいる近隣地域の山林では、竹の増殖がひどく、竹の伐採ボランティア活動に参加した。近くには炭焼きガマがあり、伐採した竹で“竹炭”作りをしていた。竹は割って燃焼・いぶさないと爆発を起こす。今は竹を4つに割く簡単な器具がある。僕が参加していたときにはなかった。そこで、斧による竹割が必要であった。

 50年ぶりでも、僕の体は“マキ割技術?”を忘れていなかった。楽々と、次々と、竹を真っ二つに割っていく!! 見ていた竹炭作りの人達は、「すごいな! 93%の確率で割っているわ!」 何故? 93%?

 見ていた人が興味を持って、竹割に挑戦!! 見事、私が50年以上前に体験していた現象の再演をしていた。5,6回も挑戦すると、気力・体力とも限界か? 竹割挑戦は終了である。僕は疲れも見せずに、竹割をやっていた!!

 技術~技能は、やはり、「体が考えて身についている」としか思えない。こうした技能は、終身資産となる。


「技術」:ものごとを取り扱ったり処理したりするときの方法や手段。および、それを行うわざ。ものごとをたくみに行うわざ。社会の各分野において、何らかの目的を達成するために用いられる手段・手法。

「技能」:物事を行う腕前。(大辞林 第三版)  あることを行うための技術的な能力。(デジタル大辞泉)

 上記の解説から、私は「技術」とは、「方法」「手段」としての普遍的なものである、と考える。
 実社会や実生活の中では、「人」を通して、ある現象や事象で、その効力を発揮する。
 即ち、方法や手段を、実生活上で有効活用するのは、「人」が利用して初めて、意味になる。
 即ち、「技能」として、有効性を発揮する。

 「技術」は頭で理解できるが、「技能」は体が考えて、発揮して初めて生まれる。

 「人は“体”が考えて、行動することで、“技能”としての有効性が生まれる」といえるのではないか?


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