天野 若人 9

(あまの わかひと)


海の人編6


釣りの醍醐味

 若人の釣りの内容は、2,3年の間に、大きな変化を遂げていた。小学校の6年生、あるいは中学生になっていたのか、今となってははっきりしないが、若人の釣りは、磯釣りの醍醐味といわれる“キシャダイ”(イシダイ)狙いになっていた。小さい時には、“サンバソウ”といった小さなものを釣って、引きの強さや泳いでいる時のすばしっこさを感じとっていただけだった。3年ものの大物キシャダイを狙い出したきっかけも、今ではよく思い出せない。
 釣り場も、“畳が浦”の“馬の背”といわれる場所のごく近くにあるポイントに限定されていた。このポイントは、深く落ち込んだ幅が2メートルにも満たない断層の先の岩場の先にある窪地だった。こうした海中の地形は、陸地からでは見えない。多分、夏の水泳から得た情報であったと思う。

 小学校の高学年になると、若人の水泳目的は、海の獲物を漁ることが主体になっていた。必然的に、場所は畳が浦となる。主たる獲物は、“サザエ”と“アワビ”であった。たまに、タコを獲ることもあった。畳が浦での獲物探りの水泳活動は、晩秋にかけての“キシャダイ”のポイント探しも兼ねていた。

 若人は色々と想像をめぐらしてみた。
 寒い冬に向かって日本海が荒れてくると、近海にいる魚たちは、沖合の深海で荒波を避けているのではないか? 深い海には餌は少ないから、腹をすかした魚は、荒れた海が静かになると、餌を求めて浅い海辺に移動して来るのではないか?
 以上の想像から若人が見つけたポイントが、馬の背の近くであった。

 
 仕掛けもすっかり変化していた。“釣り竿”は真竹を使った。できるだけ長いものが欲しいが、長いとどうしても太くて重くなる。そこで冬場、竹藪に入って、長くて細い“真竹”探しに精を出した。見つけた竹は、家に持ち帰って、焚火を起こしてゆっくりとあぶる。若人は、少しの曲がりも、あぶりながら修正できるようになっていた。こうして、煤で少し黒ずんだ箇所はあるが、強くて軽い、手製の釣り竿が仕上がる。

 近所の人が、釣り竿を見て、
「ワカちゃん、自分でこしらえんさったか? ようできとるのー。だれかが教えさった?」
 若人は、無言で頭を横に振る・・・。

 テグス(釣り糸)も、一回り太くて強いものへと変えていた。もちろん、釣り針も大きくして、重りも今までとは比較にならないほど重いものに変えていた。

 
 3,4日、日本海が荒れた11月下旬の土曜日、若人は、学校から帰ると、昼食もそこそこに畳が浦の“馬の背”へと出かけた。浜辺に出るところにある家の、Yおじさんに見つかる。
「わか、ええ竿持っているのおー。自分で作ったのか?」
 褒められた嬉しさを隠しながら、小さく、“うん”とうなずく。
「うまいこと“あぶったり”して・・・なにゅ釣るのか?」
「キシャダイ」
「波があるけー、あぶのないようせにゃー」
 若人は、さらに頭を下げて、嬉しさをこらえながら、「うん」とうなずく。
 伯母さんに、また、「お宅の“わか”、なんぼー褒めても、いっこも嬉しそうにせんけのお。褒めがいがのうは・・・」と伝わるかも知れない。ふと思ったりした。

 “馬の背”の手前にある浅瀬で、餌に使うカニを獲り始める。心はうきうき。自分でも心の高鳴りを感じられるほどの、高揚感である。晩秋からは、カニたちも、深いところが寒さしのぎになるのか、浅瀬には夏にいたほどには見つからない。この見つからない不安な気持ちが、一層の高揚感をかき立てる。

 4匹もあればよいかと思い、釣り場に向かう。
 海面から2メートルにも満たない岩場には、時折しぶきがかかることもあった。だが、高揚した状態では、少々の水しぶきなど気にならない!

 5,6分・・・手ごたえはない! 一度上げてみると、餌は無くなっていた。
 今回の釣り竿では、少々の引きでは、その感触を手で感じ取ることは無理であった。この無理は承知の上で、若人は、キシャダイを狙っている。

 改めて、新しい餌に取り換える。
 結果は、またも同じだ。
 今回の気象状況や季節を考えると、キシャダイがこのポイントに来るための、最高の条件は備わっているのだが・・・。

 まだ餌のカニはある。カニの足・ハサミを外し、甲羅部分も念入りにはがして針に付け、狙ったポイントへと投げ入れる。
 2,3分経過・・・やはり、手ごたえはない・・・。

 それは突然やってきた。

 釣り竿の半分くらいからしなって、海に引かれている。思わず、足にも力が入ったのがわかる。力の入った足で踏ん張りながら、素早く釣り竿を上空に立てる姿勢に入る。岩礁にでも引っ掛ければ、負けである。しかし、このポイントにはそうした岩礁はない! 夏の水泳で確認していた情報は、若人に気分的余力をもたらした。

 6,70度に立てた竿を、かなりの時間、そのままで持ちこたえる。実際は4,5分程度の格闘だったのかもしれないが、若人にとっては、10分にも20分にも及ぶ戦いのように感じられた。 
 シマは薄れかかり、サザエをも噛み砕くといわれる歯を持った“キシャダイ”釣りの最高の達成感は、今も忘れることができない。

 伯母さんが、「あんたが釣ったのか?」と、持ち帰ったキシャダイを見てびっくりしている。
「うん」と、小首を一段深くしてうなずくだけ。
「200匁以上あらー」
 魚の大きさに、伯母さんも興奮気味である。山間育ちの“伯母さん”でも、これくらいの魚になると、刺身はつくれる。残った部分は“あらだき”にした。身がたっぷりとついていて、最高の“あらだき”だった。

釣りの終焉

 中学2年の冬休み、広島の家族のもとで冬休みを楽しんでいた時のことである。年末になって、時々出血した。手足が出血で膨れてくる。血便が出る。家族が不安がるも、改善は無し。
 年が明けて、1月3日、広島市内の逓信病院に入院することになった。“紫斑病”と診断される。どんな投薬を受けたか、記憶にない。時に食べ物を受け付けないこともあったと覚えている。当然痩せてくる。
 後で聞いた話であるが、家族は、「若人はこれでだめか?」と話したこともあったそうだ。本人はいたって呑気に、時たま父が買ってくる本を読んだり、中学のクラスメイトに手紙を書いたり、看護婦さんを相手に読んだ本の話をしたりして、病院暮らしを楽しむ風もあった。

 以降、3月20日頃にやっと退院して、伯母の家(唐鐘)まで帰る。結果、中学2年の3学期は、一日も学校に行けなかった。しかし、その年の秋・高校試験は、それなりの成績だったらしく(確証はないが)、無事に合格することができた。

 中学3年(昭和31年)の冬、父は広島郵政局から島根の温泉津(ゆのつ)郵便局長に転勤してくる。出身地である島根県の郵便局へ帰ってきたということになる。姉と兄は既に就職していたため広島に残り、弟と母との3人が帰ることになった。
 すぐには家が見つからないので、若人は、そのまま伯母の家で高校受験もした。浜田高校である。

 高校には3年間、温泉津から30キロ以上離れた浜田まで、汽車で通学することになった。
 3月には貸家も見つかって、昭和32年4月から、一家4人の新しい生活が始まっていた。
 4月からは、若人の生活は、文字通り一変した。片道1時間以上かけて通う高校生活。朝7時に汽車に乗り、帰宅は夕方4,5時であった。当時の浜田高校は、各学年普通科8クラスの、マンモス校であった。進学クラスは2クラスで、成績順位も公表されていた。

 1年生の学年末に、突然、学校から保護者に呼び出しが来た。母が出かけていったら、「大学受験なんて、とてもとても。卒業すら、難しい」と言われたらしい。母は仰天したようだ。
 高校1年の成績は、それほどひどくなっていた。しかも、1学期より2学期と・・・。それもそのはず。試験期間は、釣りに専念していたのである。

 
 ここで、高校時代を過ごした温泉津について書いてみよう。

 温泉津は、外海から入り込んだ港町である。湾への入口には、かなりの“瀬”があり、これが難点だった。
 温泉津周辺は、日本海特有の断崖絶壁が続いていて、磯釣りには絶好の地形である。まだ釣人が少ないこの時代でも、地元以外からこの周辺には釣り人が来ていると聞いていた。しかし、多忙な高校生活を送っていた若人にとっては、温泉津の岩礁での釣りは、2,3度しか記憶がない。


↑ 若人少年時代(唐鐘)、高校(浜田)、第二の住居家(温泉津)…各町の位置関係

 
 若人が汽車で通学していた途中には、江津という町がある。この町の沖合で、明治時代に起こった歴史的事件のことを書いてみたい。

 昭和34年に、大阪の会社が、江津市和木の沖合に沈んでいる“バルチック艦隊の特務船・イルティッシュ号”の積み荷を引き揚げていたが、期待していた金塊は出て来ず、陸揚げされた物は、大半が燃料の石炭であった。



 「イルティッシュ号」について、資料を引用し、もう少し詳しく見てみよう。

<イルティッシュ号投降事件>

(前略)

5月28日午前10時頃、和木の真島沖にたどり着く。
さらに北上し、嘉久志(現・江津市嘉久志町)の沖まで来たところで江の川の河口で時化を避けて並ぶ漁船を発見した。数日前から強い西風が吹いていた和木の浜には100隻近い漁船が時化を避けて並んでいた。
これを日本の軍艦と誤認し、イルティッシュ号は反転した。しかし、イルティッシュ号の浸水は増すばかりで、再び和木の真島沖に戻った午後2時過ぎに航行不能に陥った。
このため、陸地から2海里の地点に停泊して6隻のボートを下ろし重傷者から順番に上陸させることにした。 ボートの舳先にはB旗(我は激しく攻撃を受け)・N旗(援助を乞う)・白旗・赤十字旗・ロシアの国旗を掲げて投降することとなった。イルティッシュ号が姿を現した都濃村和木では大騒動となっていたが、白旗を確認すると住民たちは安心し、救助活動にとりかかった。

(中略)

住民による救助活動と、炊き出しを受けたロシア兵には涙を流すものもあった。
翌5月29日未明、イルティッシュ号は沈没した。同日朝、乗組員は浜田の歩兵第21連隊へ戦時捕虜として引き渡された。

後日談
翌年(1906年)から、戦争等による中断をはさみながらも和木住民によってロシア兵の慰霊祭(ロシア祭り)が行われている。江津市和木町にはイルティッシュ号の乗組員の慰霊碑が建てられており、遺留品などは和木公民館に保管されている。慰霊碑は2021年現在和木地域コミュニティ交流センターの敷地内に移設されている。 

(後略)

引用:「イルティッシュ号投降事件」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org 更新日時:2021年9月10日 (金) 12:39

 
 今回、回顧録を整理する際に、この出来事をインターネットで探し当てた。当時、何度となく、温泉津港(サルベージ船の本港が温泉津港だった)において、海中から作業船によって引き揚げられてくる沈没物が、整理・調査されていた。宝探しのような期待感があったことを、今、思い出している。結果は・・・燃料の石炭がほとんどだった!


 再び若人の釣り生活に話を戻そう。

 高校1年の中間試験・期末試験の時期には、空いた午後に途中下車をして、試験のことは一時忘れて馬の背へ行く。そして、先に書いた保護者呼び出しがかかり、若人の釣り生活は、終焉を迎えることとなった。その当時の釣り具一切は、伯母の家にそのまま置いてある。

 若人の“釣り”(海の人)は、昭和33年3月をもって、忽然と終わりを告げたのであった。



海の人編 完


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はじめに
山の人編1
山の人編2
海の人編1
海の人編2
海の人編3
海の人編4
海の人編5
海の人編6
番外編1
番外編2
番外編3
番外編4


 

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