天野 若人 12
(あまの わかひと)
番外編3
「1950年夏・広浜線バスの旅」
昭和25年7月、大きな期待で心弾ませた僕を乗せて、バスは浜田の駅前を出発した。
「今夜には1年ぶりに両親と兄姉弟に会えるのだ」
前年、昭和24年の夏に、母と兄姉弟とは、単身赴任中の父が住む広島へ行っていた。
僕一人は、子どもがいない母の実家で暮らすという生活であった。
小学3年の夏休みである。
広島とはどんな大都会だろう! 島根の小さな漁村に育った僕の、初めての大旅行である。
浜田駅を出て、小さな市街地(当時の僕には大きな市街地に見えた)を抜け、浜田川の橋を渡ると、右手に国立浜田病院、その向いが、旧浜田連隊の建物を利用した県立浜田高等学校である。同じ敷地内には、浜田一中もある。浜田高校は僕の母校でもある。
ここを通り過ぎると、バスはすぐに、曲がりくねった坂道へと差し掛かる。
1年生の国語の教科書に、バスが村から邨の坂道を結んでいる話が、挿し絵と共にあった。
僕はこのバスに、この光景を重ねながら、右下に浜田川が少しずつ離れていくのを飽きることなく眺めていた。
高校2年の冬には、この道が校内マラソンで往復10キロを走るコースにもなる。往路は登りの坂道でも、復路は下りで、しかもカーブは変化があって、意外に楽しく走れたことを記憶している。もちろんこの時は、後にこんな経験をすることなど、露ほども想像できなかった。
坂道を登りきる辺りは、「佐野」という集落である。僕が今暮らしている母の実家の伯母はここ、佐野の出身である。小さい頃、伯母に連れられて2,3度来たことがある。
バスに弱い伯母は(あるいは金を惜しんでいたかも知れない)、いつも徒歩で半日かけて行き来をしていた。当時は日常生活で乗り物を使うのは汽車くらいであった。何故か、当時の僕には、バスは大変高級な乗り物に見えていた。伯母の実家から見える、国道を走るバスには、なんとも知れない夢や期待を膨らませるものがあった。
「そのバスに今、僕は乗って、広島まで行くのである!」 想像いただけるだろうか?
この辺りから道の起伏はあまりきつくはないものの、左右へのカーブは相変わらず続く。
少し町らしく人家が増えるところが、「石見今福」である。
5年後の中学2年の時、浜田・那賀郡地方の中学校卓球大会が、ここの旭中学校で行われ、参加した。僕の人生では、公式のスポーツ大会へ唯一出場したのが、この大会である。浜田一中の左利きのK君に、1セットも取れずに惨敗した悔しい思い出の地である。
2時間近く走り、車内は大分暑くなってくる。「日よけのために右側の席に座れ」と言われた訳が、段々と理解できてきた。前に座っているのだが、開けた窓からは砂埃が排気ガスのにおいと共に入ってくる。しかし、今の僕には、この状況は何かしら快感にすら思えていた。
乗客の何人かに「大きなブリキ」で作った肩掛けの荷物を持ったおばさんがいた。
僕達はこの人達を、「かつぎや」と呼んでいた。僕の住んでいた国府町唐鐘は元来漁師町なので、唐鐘の在住者が多いのである。この頃になると、大半の魚は浜田の港で水揚げされていた。
朝の競り市で競り落とした魚を、バスで山里へ運び、生計を立てていたおばさん達である。2缶も持った猛者おばさんもいる。4,50キロにもなったに違いない。
今福を過ぎると、一人、一人とこのおばさん達が降りていく。停留所の近くにはほとんど人家がないような、うら寂しいところに!
そこには、新鮮な海の香りを心待ちにする里人がいたに違いない。祝い事には、事前に依頼した祝い魚を間にして、会話も弾んでいたことだろう。
まもなくして、バスは「石見今市駅」に着いた。ここで5分間の休憩と、車掌が案内した。
運転手は小さな金槌で、とんとんとタイヤを叩いて何かを調べている。
この停留所は国鉄の駅と同格なのだろう。「駅」という看板があり、駅と同じような切符の販売窓口がある。
中には制服を着た職員風の切符売りまでいる。郵便のマークが入った袋を託したりする。鉄道郵便の役目を兼ねている。
今市を出てすぐ、分かれ道がある。左手は父の実家・邑智郡「矢上」へ通ずる街道である。
右へとった道はしばらく進むと、再び、右、左ときついカーブの登り道へと差し掛かる。30分ほどで登りきった頂上が、海抜437メートルの「坂本峠」である。
車掌が「ブレーキテストを行います」と案内し、バスはブレーキ音をきしませながら、一時停車する。運転手は「ブレーキオーライ」と言って、再び、走り始める。運転手の後ろ姿や言い方に、格好良さと信頼感が沸いてくる。
バスが坂を下りきったところが「坂本」で、バスはしばらく進み、「都川」に出る。
比較的直線的な道は、左手の川に沿って走り、右手には青々とした水田が広がる。夏の風が稲穂を渡って、“緑海”の小波の景色が続く。
都川を通り過ぎて、道は両側から山が迫り、断崖の景観が一番見事なところは、都川川と市木川とが中国太郎・江川へ流れる合流地点・「岩畳」である。
バスは市木川の橋を渡り、市木川に沿って「石見市木」まで走る。
ここまで来ると、乗客に「かつぎや」さんは見当たらない。
バスはいよいよ、海抜555メートル、この街道で一番高い県境「三坂峠」への、長い長い登り坂へと掛かる。
すれ違う車もめったにない。カーブに差し掛かると「警笛鳴らせ」の標識があり、運転手は「ぷー・ぷー」と2回警笛を鳴らし、相手からの警笛はどうかを確認しながら、少しスピードを緩めて、カーブを曲っていく。時に、この標識を無視することに気付いた。先のカーブを注視し、対向車が来ないかどうか事前に確認して運転していると気が付いたのは、坂道の半ばに来てからである。この辺りまで来ると、木の間からは、眼下に市木の2,3の家が見える。はるばる登ってきたと感じる時である。
三坂峠は、山と山との間に挟まれた、何の変哲もないところである。でも、運転手からもバスからも、ほっとするものを感じるのである。やっと、山陰道を越えた。これからは、山陽道である・・・との。
後年、冬や春先にもこの峠を通る経験をし、陽光や雰囲気が、この峠を境に確実に変化していることを実感するのである。
夏の今は、真昼の太陽が“もやった”中でけだるい感じが伝わる。道も直線に近いなだらかな、だらだらとした下りに変わる。
浜田を出て、4時間を過ぎ、中間点「大朝」に着いたのは昼前である。車両点検と昼食を兼ねた休憩が、15分とられる。海抜402メートルのこの地点の水は、冷たくてうまい。
決して高くはないが、「駅」売店で販売している“田舎まんじゅう”は、当時の僕には贅沢品で、横目で見て過ごすだけである。昼飯にパンを2個買い、冷たい水を飲み物にして、飯代わりに済ます。
さあ、後半の出発である。5分も走ると、この街道で最も長い一直線の道に出る。新庄である。山陰の狭い、曲りくねった道になじんできた僕には、“素晴らしい道”がここである。いつ見ても感動したことを思い出す。
一直線の道が終わる辺りまでが「大朝盆地」である。 小さな峠を越え、「蔵迫」辺りから川に沿った道が続いていく。人家も増えて、なだらかな丘陵地帯に水田の風景が広がるこの付近は、「千代田町」である。町の中心にある“駅”は、「八重駅」である。
ここでも郵便物の受け渡しがされている。郵便物の受け渡しの駅にも、指定があるらしい。
起伏も少ないだらだら道で「本地」まで来ると、少し登り坂になる。広島郊外のハイキングに絶好の場所、可部冠山(736メートル)の後方の登山口・「丸押」である。
峠の頂上、海抜417メートルの明神峠からは、この街道のクライマックス的な約2キロのヘアピンカーブである。3つのヘアピンで一気に200メートルの高低差を下っていくが、カーブを曲る際、まさに眼下に2つのヘアピン。その下に鈴張川の川面がハッキリと確認できる眺めである。
川沿いの停留所「鈴張」は、3番目・最後の5分間の車両点検駅である。ここの流れは水量が多く、山間を一気に流れ落ちた水は、大朝の水よりも涼感を誘う。思わず、川で顔を洗っていた。
鈴張を出立したバスはすぐに、「三段峡」から太田川沿いに「加計」を経てきた道と合流する「飯室」である。ここからは、広島への最後の峠・「遠(え)坂峠」の登りになる。この付近からは交通量も増えてくるだけに、この峠は難所である。
昭和20年代の終わり(正確な年は失念した)に、盆の客で満員になった民営のバスが転落し、多数の犠牲者を出した。これをきっかけに、昭和30年代には、トンネルのある有料道路ができた。この街道で唯一の有料道路だった。10年後に一般道路になっている。
最後の峠を下ると、バスは「勝木」「大毛寺」を経て、可部の町に入る。
昭和39年、神戸の暴力団も巻き込んだ抗争があった。「仁義なき戦い」という題名で映画にもなるほど、好ましくない事件であった。この大毛寺は、この抗争時に関係深い(暴力団の幹部が射殺された)地でもある。
可部は、浜田からの街道と、出雲・松江からの街道が交差する地点であり、広島一の“大川”太田川が広島平野に注ぐ、海抜22メートルに位置する交通の要所である。広島まで5里、20キロ強で、当時は広島の郊外であったが、現在では、広島のベッドタウンである。
バスは、両側の民家や商店の軒に触れんばかりの狭い市街地の街道をのろのろと抜けると、太田川の堤防上へ出る。
500メートルも走り、この街道で一番長い橋で太田川を渡る。
この付近から、バスは、国鉄の電車・可部線と平行する山裾の道を、一路広島を目指して走る。
家族が住む安佐郡祇園町「西山本」は、可部と広島市内との、ほぼ中間に位置する。
初めての一人での旅。西山本を過ぎて、終点・広島駅まで乗車する。
祇園町と広島市とが接する「長束」「三滝」辺りでは、太田川の放水路が未整備で、葦を主体にした雑草で覆われ、所々でワンドを形成している。この後、毎夏、僕は何回か、このワンドで釣りをするためにやって来た。
いつも一人で、このワンドでは他の釣り人をほとんど見かけたことがない。フナがよく釣れた思い出と共に、今はない懐かしい風景である。
可部線の終点でもある「横川駅」に着く頃には、夏の日も西に傾いている。
広島は、市内の交通は市内電車が主体で、郊外の交通手段はバスが中心である。
僕が乗ってきた国鉄バス! 横っ腹に格好良くすいすいと飛ぶ“つばめ”のマーク!
8時間以上の長旅のためだろうか、大都会・広島の街に着いた途端にくすんで見える!
横川駅に途中立ち寄り、バスはまた、本線を市内電車の軌道と一緒に走る。
度肝を抜かれるほどの広い道である。
この付近は「寺町」で、左手には墓所が続いている。
ほどなくして、バスは左折し、広島の中心街へと入る。
元安川の橋を渡り、「紙屋町」へと走り込む。
「紙屋町」には、昭和20年8月6日に、人待ちして銀行の石段に座って被爆した“人の影”が残っている。悲しい原爆の歴史証人が、当時、ハッキリと見て取れたのを思い出す。
一番の繁華街・「八丁堀」を越えると、まもなく、終点・広島駅である。
山陰・浜田と山陽・広島とを結ぶ国道・広浜線122キロメートルの終点、広島駅の駅前には、6階建てのデパートはあるものの、東通りには、戦後の様子を垣間見る雑然とした建物が立ち並んでいた。
半世紀前の小さな小さな記憶が、永い時の中で、折り重なりながら、時として、相前後して、大きくなったり、小さくなったり変化しながら、蘇るのである。
70キロ・2時間の、今の自動車専用道路の行程からは、想像すらできない旅装である。
2000年秋
大阪於 天野若人
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