天野 若人 7
(あまの わかひと)
海の人編4
3)釣り
海辺で生まれ育った“若人”は、“釣りから会得した何か”が、心身のどこかに潜んでいると感じることがある。その何かが、言動に時々現れてくるように感じるのだ。
しかし、高校卒業と同時に浜田を離れて、大学卒業後企業人になって40年近くの年月の中で、釣りの経験としては、会社のリクリエーションで数度、釣り漁船での釣りをしたことくらいである。その時の釣りは、島根の海岸で体得してきた“釣り”とは、似ても似つかぬ別物だった。
爾来釣りはほとんどしなかったが、娘が小さいときに、時折近場の農業用の池で、フナやコイを狙った釣りをしていた。しかし実際には、“ブルギル”との戦いが多かった。
唐鐘での釣りに関しては、下記のような魚種だった。地域での呼び方で、当時のことを思い出す。
◎唐鐘(畳が浦)海岸周辺の釣りから見た魚 - 当地の呼び名
初期の釣り
若人は、釣りの世界で、誰かと一緒とか、誰かに尋ねたり教えてもらったりした記憶はない。すべて自己流だったのかも知れない。“海の中”という見えない世界で、魚ってどんなふうにして生きているのだろう?・・・好奇心が、自然と湧いてくるのであった。
若人にとって“魚を釣る”ということが、成長にとって欠かせない何かを残してくれたように思う。
兄弟で釣りをしたこともなければ、釣りの話をしたことも思い出せない。多分ないのだろう。
最初の思い出は、唐鐘漁港内にある“船着き場”での釣りである。
仕掛けは全て自分で作ったと記憶している。誰かに教わったという記憶はない。しかし、自分で勝手に考えたとも思えない。“テグス”(当時は素材のナイロン糸をそう呼んでいた)、釣り針、重りの材料は、当地の雑貨商店・“神戸屋”で買ってきた。
最初、浮きは使わなかった。竿は、近くの藪から、“女竹”(忍竹)を取ってきて作った。この竹も、部落では2か所か3か所でしか自生していなかった。
餌も、子ども心に、“大きい餌なら大きな魚が釣れる”と勝手な思い込みをして、大きな餌(魚をさばいた残り物)で始めた。
しかし、結果は、釣れないし餌は取られるしで、散々だった。
1年目、ほとんど釣果は無しであった。
2年目になって、子ども心ながら、対策を考え始めた。
前の年の夏に、泳ぎながら釣りをして、相手は圧倒的に“チンチンフグ”と“セイバチ”が多いことを知る。
「彼らは口が小さいのう・・・餌は“こもう”(小さく)せな・・・」
「針も“こうもう”せにゃー・・・」
仕掛けはほぼ作り直したが、それでも釣れない!!
餌は無くなっている。
何故だ? 仕掛けは万全なのに!
そうだ! 魚が餌に来ているのに、気が付いていない!!
“よろず屋”・神戸屋に走る!
「浮きをください」
重りも小さく。釣り針もさらに小さく。餌はイカの切り身で可能なだけ小さく・・・。
波止場から釣り糸を下ろす!・・・浮きが、小さな反応をする。
“チンチンフグ”が、かかった!!
“セイバチ”だって、釣れた!!
9月になると、山陰の海も、荒れる日が多くなる。
今年生まれた魚も、随分と大きくなって、冬に向かって食欲も旺盛になっている。
“しけ”も収まったある土曜日、学校から帰ると、釣り竿を抱えて、“犬島”へ。
犬島は、唐鐘漁港を形成する防波堤の右側にある。この時期になると、今年生まれた“クロヤー”は、かなり大きくなっている。食欲が旺盛で、釣りの引きが強い。
若人の釣具も、わずかこの半年で、相当進化している。竿も“真竹”に変わり、長さも1.5倍くらいまでに伸びている。
狙う“クロヤー”も、荒波を避けて、この入り江へ回遊して来る。大半は今年生まれ(“とうねんご”といった)であった。
この釣りは引きが強くて、釣れた時の満足度が大きい。
たまに、2年目の“クロヤー”が来ると、興奮は最高潮に達する。
しかしこうした釣りの時期は、ほんの一瞬だったように記憶している。
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