天野 若人 4

(あまの わかひと)


海の人編1


プロローグ

こんな小さな漁村で育つ・・・生い立ちの地

 若人が中学(15歳)まで育った“唐鐘”は、地名からも大陸(あえて韓国や中国でなく、“大陸の異国”)との深い関係を示していると思われる。小さな港(というよりか、“船の係留場”)町である。
 僕はある意味で、 “海の人”であるといっても過言ではない部分もある。海といえば、“泳ぐ”ことから始まる。泳ぎを覚えて、サザエやアワビの貝類を獲る。磯釣りをすることで、海のことを知ろうともがきながら、考えている自分がいたことを思い出す。

 現在地図で見ると、“唐鐘漁港”なる立派な名称であるが、当時は、砂浜が畳ヶ浦につながる絶壁の“ヘリ”に“石”を積み上げて(投げ落としたが正しい?)波除けの“湾”にしたものだった。石積みの上に申し訳程度のセメントを流した船着き場と小さなセリ・スペースとがあるだけだった。港内の船を保留する場所は、主体は湾内の砂浜だった。

 伯父の家は、この砂浜から4軒目に位置していた。泳ぐときは自宅で水着になって、そのまま浜辺まで行けた。


 船着き場が石積みで残っていた時には、2~3月の冬に、この船着き場で“モクズガニ”を獲った思い出がある。

 河ガニの“モクズガニ”は、冬場に海で産卵するといわれている。集落のはずれに小川程度の川があるが、ここから産卵で来た“カニ”とすれば、当時の自然の豊かさを物語る一件である。



 若人にとって、海と河川との関係は、成長に大きな影響をもたらした。

  “海”は“漁る”を体得できる道場だった。生き物に触れる感触はこうした状況から身についたのか?
  1)“漁る” 面白さ

 溺れそうになりながら、体得し、新たに見えてきた海。
  2)“泳ぐ” 体得する

 季節、魚、道具・・・進化していく“釣り”は、ある事件であっけなく終了。
  3)成長する “釣り”

 以上3フレーズで思い出すことにした。

1)漁る

早春

 僕、天野若人にとっては、海で“漁る”は、早春と初夏との、“2つの”体験である。本稿を綴るに際して、当時の状況は今の時代からは想像を絶する状況だった?という思いがわいてきた。まず、当時の世情を記憶でたどってみたい。

(山陰の海及び時代背景)

 小学校には、昭和23年(1948年)に入学する。そうです。終戦後3年たった時です。近くの浜田市には陸軍の連隊があった。“軍都”とまでは言えないが、日本海を守る役割もあったかもしれない。9年後に通った浜田高校は、軍隊施設の跡である。建物は堅固ではあったが、ひどく使い勝手(教室として)は悪く、単なる“箱”といった感じだった。高校2年の時には、夏休みに、男子学生は1日登校させられ、教室内のペンキ塗りをさせられたこともあった。

 唐鐘から浜田までは10キロ程度離れた隣町であるが、浜田市へ行くには、住んでいた“伯父”の家からは2キロ以上も離れた“下府駅”から行くしかなかった。しかも本数は、通勤時間帯でも1時間に1本程度の列車しかなかった。当時は列車を使う時の会話は、「“7時番の汽車”で浜田へ行こうか?」という約束で、会話が通じる状態だった。浜田市内へ初めて行った記録は、小学校3年の夏に広島へ行くために浜田へ行った記憶しかないほど、“都市・浜田”の印象である。

 長兄(10歳上、母の実家:伯父の養子)は、浜田の新生高校へ通っていた。家からコメを持ち出して、「進駐軍(アメリカ兵)から煙草を買った」という話を聞いたことがあった。僕はこの年(小学校に入学する)までに、アメリカ兵(外国人)は見たこともなかった。

 下府駅から一駅の浜田駅(乗車距離は約5キロ程度)は、行くのもこれほど大変なことだった。

 この時(1948年)は、戦後の荒廃した姿が続いていた時代である。反面、戦前からの社会情勢(戦争に大半が向けられていた時代)は、自然への人の介入が少なかったと思われる。20年以上にわたって、海や陸地の自然は、人力主体の漁業(近場の漁場で近海魚を獲る程度、サザエやアワビは獲る暇もない)や農業(人力主体で堆肥等の自然肥料)しかできていなかったと想像できる。

 当時が自然豊かだったと語れる根拠は、5,6歳のある夏の夜に、“唐鐘川”で1回(2回だったかも?)ホタルを見たのである。全長が4キロにも満たなく、上流でわずかな田んぼが点在する程度で、小川のような場所にホタルがいた。その幻想的な生き物を初めて見た驚きと印象は、深く心に刻まれた。
 さらに、数年後の昭和25年(1950年)夏休みに、家族が住む広島市郊外(祇園町・西山本:標高150メートルくらいの丘陵地に田んぼが広がった集落)で見た夏の夜の光景は、強烈な印象として残った。
 誘蛾灯には夏の虫が飛び交い、無数のホタルが乱舞する光景を、あきることなく眺めていた小さな自分を、今でも鮮明に思い出す。

 今(2020年)振り返ると、半世紀以上、人でいえば2代前にさかのぼる、“歴史物語であり遠い昔話”のことになるのかもしれない。


 強い北風の音が途絶えたスキマに聞こえるのは、日本海のうねり音である。

 長くて暗い、冬の山陰海辺での生活では、6時前後の夕食後は“何もすることがない”。伯父の家にはラジオはあった?と思う。ラジオを聞きながら、一家団欒という雰囲気でもない。
 8時過ぎには寝ていた。漁港へ続く道路の10メートル以上の下に位置する伯父の家には、冬の山陰暴風は直接当たらない。その代わりに、海まで3軒しかない日本海の荒波音は絶え間なく、犬の遠吠えのように聞こえてくる。慣れてくると、これは心地よい子守唄に聞こえる。

 出身が浜田というと「雪が多くて大変だね!」とよく言われてきた。中学(15歳)まで伯父の家で過ごした15年(記憶に残るのは10年ちょっとか?)の記録の中で、10センチ程度の積雪が“大雪”記録(2度くらい?)で、数センチも積もれば、大喜びするのである。こんな話を聞く人は皆、首をかしげる。話す自分も首をかしげる。

 浜田に勤める伯父が帰宅して、「今日、浜田は30センチくらいの雪だった」と話すことも何度かあった。住んでいる唐鐘から浜田市街地は10キロほどしか離れていない。浜田は湾に囲まれた港町である。わずか10キロほどの違いでこれだけの差があることを、子どもの頃には、“おかしいな?”と感じてはいた。

 大陸の北風が猛威を振るうと、すごい波しぶきになり、高台に上がっても水平線は見えない! もうもうと煙のような波しぶきのような“霧”が立ち込める。南から流れている“対馬暖流”が、“北風”に混ぜ返されて、蒸気となって波しぶきと共に上昇をしてくるのである。

 海辺の町、唐鐘には、雪は降らない。強風でもあまり寒さは感じない。数キロ海岸線を離れるだけで、巻き上げられた水蒸気は“雪”に変わるのである。中国山稜(古い教科書では“中国山脈”となっていた時代もある)の山里には、日本海の水蒸気をたっぷりと含んだ雲が豪雪をもたらす。
 特に、年末あたりまでは、“対馬暖流”はその年の夏の暑さが関係して、海水温が高い年もある。こうした年は、年末までに降る雪は重たく、豪雪になることがある。“38豪雪(1963年)”は典型である。
 一般的には、年末までに降る雪は、水分が多く重たい雪である。年が明けて降る雪は軽くて、肌を刺すような雪が多い。

 年が明けて、寒中(1月中旬以降)になると、唐鐘の漁業者のおばさん達は忙しくなる。3,4日大荒れが続くと、わずかに穏やかな日になる。冬至も過ぎて1か月近くになると、日は長くなり始める。
 夜明け前の6時からが、おばさん達の出動である。手には“ざる”と“ナイフ”とを持ち、防寒を着込んだ姿・・・一斉に、畳ヶ浦へ出撃! 畳ヶ浦周辺は、前日までの暴風の余波が残り、“安全ライン”ぎりぎりの出動である。
 そうです! “岩ノリ取り”競争です。漁民でない伯母さんは、本戦闘には参加資格はない。

 丁度このわずかな穏やかな天候の合間に採取された“岩ノリ”は、各家庭の軒先で天日干しされる。この天然の“岩ノリ”の色つやと香りは、食に無頓着な僕にもわかるほどだった。
 採取した“岩ノリ”は、海水で丁寧に水洗いされるが、時として、小さな石が残っているのがたまに傷だった。この行事も、立春過ぎまでのごくわずかな期間である。“岩ノリ”取り行事も、年数回だけのわずかな行事だった。

 僕には、冬から早春の“漁る”行動が2つあった。

 立春も近い。昨日まで久しぶりにおおしけが続き、今朝6時過ぎには、漁師のおばさん達(?)が競って“畳ヶ浦”へ岩ノリ取り出動である。

 唐鐘・畳ヶ浦の“岩ノリ取り”は、唐鐘集落でも限られた“畳ヶ浦”に近い漁師だけの特権のようだった? 毎年、寒入りした後、“しけ”(暴風)が続いた後一日の朝だけ岩ノリができる。

 その参加資格者はわからない。

 今日は幸い、学校は午前中だけである。大寒を過ぎた今回の大しけ、よい岩ノリがたくさん収穫できたのだろう。漁師の庭先に干してある“岩ノリ”風景は、それを物語っている。大荒れの後、立春も間近い陽光には、強さを感じてウキウキする。

 伯父の家から3軒目の横からは、家の屋根高さくらいまでに、竹を主材料にした“防風壁”が畳ヶ浦の端から唐鐘川まで続いている。この壁にはところどころに、幅1メートル強、高さ2メートル強の“くぐり戸”みたいな通り抜けがあり、海への出口になっている。この“くぐり戸”を抜けると、砂浜に出る。砂浜を右へ6,70メートル行けば、魚市場である。

 魚市場から海に向かって幅が4,50メートルのコンクリートで傾斜した坂が、獲れた魚を市場に運ぶ通路である。海に面した10メートルほどの平らなセメントの平地が、魚の荷揚げ場である。その先には、石を投げ入れただけの石積みがあった。積み上げられた石は、石職人が四角い石に加工してきれいに積み上げたものではない。漁師が適当に海の石を拾い集めて、海に投げ入れただけのような代物だった。

 子どもにとっては、この石積みは絶好の遊び場になっていた。石積みのスキマには、小さなカニやフナ虫(“ゾオリ虫”と呼んでいた)、時には小さなカワハギやガシラのような小魚も見ることがある。小魚は季節によって少し違った種類だった。これも季節を感じる一つだった。

 陽光には、すでに早春の暖かさも感じられる午後である。

 僕は、石積みに降りて、早春の海の様子を探索・・・。

 2センチ前後の小さなカニは、いつもよく見るカニである。“ハサミ”は体に似合わない鋭さを持って赤みがかっている。“赤ガニ”と呼んでいた。すばしこくて、なかなか獲れない。

 “これは何だ!!”

 見たこともない大きなカニがいる。手を出すと、大きなハサミを振り上げる!! 近くにあった棒の切れ端で、カニを誘導する。カニの気は、左手の棒へ引き付けられる。右手でカニの甲羅を手づかみする。大物だ!

 立春を過ぎると、山陰の海は荒れてもせいぜい3日程度、日差しは輝きを増してくる。冬の大しけが海を洗浄する効果か? 一番きれいに深くまで透き通って見えるのがこの時期である。

 漁り人・若人は、“タコソバエ”なる活動期である。4,5メートルの竹の先には、“ゴンガラ”なる仕掛けがある。この仕掛けは、釣り針状の仕掛けが10本程度円形状・2段になった“ひっかけ金具”である。一般的には、どう呼ぶのか知らない。“ゴンガラ”の5,6センチ上には、魚の頭(僕はサバの頭だった)か4,5センチの細長い“白”、“赤”、“黄”の布切れかを取り付けた竹竿である。

 “ソバエル”とは、唐鐘あたりの方言で、猫等が切れ端に反応して遊ぶときに、“ソバエテル”と言ったりしていた。じゃれているとでもいうことか?
 そうです。“タコソバエ”とは、タコを魚の頭や派手な切れ端で刺激して、その足で反応する行動を利用した、“タコを獲る漁法”である。全国的に通用するのかどうか知らない。

 タコがいそうな海中で、この竿を出し入れするのである。タコは魚の頭や布切れに反応してくる。先についた“ゴンガラ”でひっかけるのである。釣り竿みたいにウキがある訳ではない。如何に海が澄んできたといっても、海中の状況は見えない!

 獲物の手ごたえは? その竹竿に伝わる感触(重さ)だけである。

 同じ場所で長時間やっても効果はない。
 タコのいそうな場所を効率よく回るのが、最大かつ効率的な“タコソバエ”漁の技法ということになる。

 タコは、夏の終わり後から、海岸近くの海辺を離れて、段々と沖の深い場所へ移動し、厳冬の時期にはタコにとっての最深部で活動も少なく、最小限の活動(一種の冬眠状態か?)に入るらしい? タコに聞いたわけではないので、すべて僕の想像でしかない。

 畳ヶ浦は、出入りの激しい海岸線や、一気に深く落ち込む岸壁や、なだらかな海域等、変化に富む数キロ続く海の景勝地である。魚や貝類も豊富だったと自負していた。

 冬眠状態でしのいできたタコは、陽光に誘われ、穏やかになりつつある浅瀬に向かって、活動を開始してきたと思われる。岸辺近くの小魚等で空腹を満たすべく、ハンティングに最適な場所へ・・・。

 1シーズンで、同じ場所で2,3度タコを仕留めた体験がある。もちろん、同じタコではない! 

 春先のこの時期にタコが選ぶ場所には、何となく共通するものがあった。こうした場所・数か所を、効率よく漁るのが、早春の“タコソバエ”である。3月中旬までの期間で、しけた後の1,2日のタイミングという、限られた体験である。


<追補>

 現在(2020年)、畳ヶ浦には、唐鐘集落の北端に掘られた“隧道”がある。この隧道をくぐり、途中で“賽の河原”に出る。奥にいくつかの石仏や小さな観音像が祭られている。“賽の河原”を横切って昔からある20メートルくらいのさらに小さな隧道を潜って出ると畳ヶ浦である。

 1950年代には隧道はなく、絶壁の下にある粗末なむき出しの小道が、畳ヶ浦への道だった。現在は“落石につき通行止め”の看板があり、通行×である。雨が降ると上から水が落ちてくる。時として石ころも落ちてくる。この道に沿った海では、小さい子どもでも貝やサザエが獲れた。危険を冒して、初夏には雨の日もこの道を使っていた。(インターネット・畳ヶ浦・“賽の河原”をご参照ください)

 冬に獲った“カニ”は、当時、名前はわからなかった。後で、“モクズガニ”と知り、その生態を知り、驚いた! 冬の産卵で川から移動した? 地形から判断して、1キロ以上離れた“下府川”からではない! だったら、“唐鐘川”か? 単なる小さな“どぶ川”? 一度、ホタルも見たな! 

 改めて、自然豊かな時代であったことを、実感できたのである。

 “畳ヶ浦の岩ノリ”もない。“タコソバエ”も“漁業権”でできない! 色々なくしたな。何を得た??



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